ジモト発見ライターがひも解く!知ればもっと面白い「ジモトの豆知識」~ラビングホーム本拠地「埼玉県西部」と「西武沿線」のよもやま話~

 

ラビング散歩 所沢という地名の由来はなに?

イワタハルユキ

私ども「ラビングホーム」株式会社山口企画設計の本社/本部が置かれているのは埼玉県所沢市です。所沢市は人口約34万3千人の中堅都市で埼玉県内第4位の自治体として高い知名度を誇っています。ちなみに県内の人口では第1位さいたま市、第2位川口市、第3位川越市となっています。ではみなさまは所沢というよく知られた地名がどこからできたか、その由来をご存じでしょうか。

所沢の周辺は長い歴史のなかで古くから野老沢(ところさわ)と呼ばれていたようです。野老(ところ)はヤマイモ科の植物のことで「とろろ」が思い浮かびます。また現在も東川や柳瀬川が流れているように、沢(さわ)と呼べる清らかな水が流れていたと推察されます。このころはところさわと濁らずに表現していたと土地の古老が話してくれました。昔から当地で暮らしている人にはいまでも「ざわ」でなく「さわ」と発音する人がいます。この思い入れには共感を覚えます。

資料によれば文献に野老沢という言葉が初めて登場したのは文明18年(1486)のことだそうです。京都の僧侶・道興准后(どうこうじゅこう)が当地に立ち寄り、観音寺(現在の新光寺)にてもてなされた折に野老の美味に感銘し歌を詠んだとされています。その歌が記されているのは「廻国雑記」という紀行文です。参考までに引用しておきます。

のあそびのさかなにやまのいもそえてほりもとめたるところさわかな
(野遊びの魚に山の芋添えて掘り求めたる野老沢かな)

歴史の移ろいと発展の過程で野老沢(ところさわ)が所沢(ところざわ)という表記に変化してきたのも理解できます。所沢の地名には『野老』に由来するという説が一般的です。

所沢駅ロータリー<所沢駅ロータリー> エミテラス所沢<エミテラス所沢>
 

ラビング散歩 狭山の変遷

西武新宿線狭山市駅は埼玉県狭山市入間川一丁目にあります。駅番号はSS26。特急停車駅です。この駅の開業は明治28年(1895)3月21日、入間川駅という名称ではじまりました。その後、昭和54年(1979)3月25日に狭山市駅と改称されました。

狭山について語ろうとすると、どうしても廃藩置県(はいはんちけん)まで歴史を遡らなくてはなりません。明治4年(1871)のことになります。行政区域の大改革だった廃藩置県で現在の埼玉エリアは、埼玉県と入間県に分割されました。当時の狭山は川越、所沢、飯能、入間の一部を含む広大な地域でした。

明治22年(1889)には市町村制が採用され、現在の狭山市域に、入間川、入間、堀金、奥富、柏原、水富の6か村が誕生しました。

その後、狭山市は昭和29年7月1日に市政を施行し、埼玉県15番目の市となりました。その際に合併したのは入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村の1町5か村。当時の人口は31,030人でした。ちなみに現在令和8年(2026)7月1日の狭山市の人口は147,364人と約4.7倍になっています。

この頃の大きな出来事といえば昭和33年(1958)にジョンソン基地(現在の入間基地)に所属するアメリカ軍B57爆撃機が狭山市入間川地区に墜落したこと。死傷者14名、建物10棟が全半壊する惨事になりました。

昭和54年(1979)には狭山市にある西武新宿線「入間川駅」が「狭山市駅」に改称されました。これで正真正銘、狭山市を代表する駅になったといえます。その後、郊外都市として着々と発展してきたのはみなさまご承知のとおりです。言うまでもなく関東三大七夕まつりとして有名な入間川七夕まつりも変わらず盛況を見せています。

交通面では昭和46年(1971)12月に関越道の川越インターチェンジが完成。平成8年(1996)3月には首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の青梅インターチェンジから鶴ヶ島ジャンクションの区間が開通し、狭山市も交通至便となりました。

平成になると智光山公園こども動物園や狭山市博物館(狭山稲荷山公園内)がオープンするなど施設が充実してきました。このように狭山市は市制施行以来、着実に発展してきています。これからも埼玉県西部の雄として活躍していくことが期待されます。

狭山市駅<狭山市駅> 智光山公園<智光山公園>
 

ラビング散歩 狭山茶の雑学

埼玉県西部の代表的な地場産業といえば茶業が思い浮かびます。すなわち狭山茶の栽培、収穫、製造を指します。埼玉県西部のみならず東京都多摩地区まで含めて狭山茶と呼ばれる場合もあります。その狭山茶のはじまりは鎌倉時代にさかのぼるといわれています。そして江戸時代の中期には茶の栽培がたいへん盛んになりました。それは江戸が茶の大きな消費地だったためと思われます。狭山茶というブランドが特産品として確立したのは明治8年(1875)ごろのことです。

現在は狭山茶にもたくさんの品種があり、それぞれの味、香り、色を活かして商品化されています。品種には、やぶきた、さやまかおり、ふくみどり、さいのみどり、ゆめわかばなどがあります。やぶきたはまろやかでよい香り、さやまかおりは濃厚で深い色合い、ふくみどりは上品でふくよかな香りが特徴です。日本におけるお茶の三大産地には静岡、宇治、狭山があり、有名な「狭山茶摘み歌」には次のような歌があります。
「色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめ刺す」

では狭山茶独特の味のよさを引き出す技術について覚えておきましょう。狭山茶には強めの火入れで味の深みと色を引き出す技術があります。これを茶業界では「狭山火入れ」といいます。製茶における基本中の基本として多くの職人が修得しているものです。また上級な茶については炭火による火入れや繊細な手仕上げなどが行われる場合もあります。茶業界も収穫や製造の機械化が進み、職人の個性が失われつつありますが、今後も伝統は守らねばなりません。豊富な経験と実績を持つ職人の存在は必要不可欠です。特に最終的な仕上げや品質管理の段階は重要です。

以上のように「お茶づくり」の伝統や技術については、機械化や自動化を活用しながら継承され、同時に職人による革新が企図されています。狭山茶の今後に期待しましょう。

狭山茶の茶畑<狭山茶の茶畑>

 

ラビング散歩 川越の象徴「時の鐘」の歴史

時の鐘川越の観光名所である蔵造りの街並みはご存じのことと思います。その一角に「時の鐘」があります。この鐘は川越城主の酒井忠勝(さかい ただかつ)が、寛永年間(1624~44)に創建したと伝えられています。その後、承応2年(1653)には、松平信綱(まつだいら のぶつな)の指示で改築されました。鐘楼は度重なる川越の火災で焼失し、その都度建て直されてきました。現在の鐘楼は四代目で、明治26年(1893)の川越大火の翌年に再建されたものです。川越の3分の1が焼けたといわれる広域の火災で自宅や店をなくした商店主たちが、みずからを顧みず、一刻も早く川越に時を告げようと献身的に再建したのは有名な話です。なお、時の鐘の鐘楼は歴史のなかで火の見櫓(ひのみやぐら)の役割を果たしたこともあるそうです。

現在の鐘楼は三層構造で高さ約16メートル、檜造りとなっています。鐘は午前6時・正午12時・午後3時・午後6時の1日4回鳴ります。昔のように手で突いた音ではなく機械で突かれた鐘の音ですが、その音色はむかしのままで格別です。なお、この鐘の音は平成8年(1996)に環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定されています。

蔵造りは頑丈で火災や地震に強いため江戸時代の町家の人々に重宝がられました。川越の蔵造りのまちも同様です。訪れたい方、最寄りの西武新宿線本川越駅(埼玉県川越市新富町1-22)までは歩いて約15分。駅番号はSS29です。副駅名は「時の鐘と蔵のまち」となっています。長い歴史を誇る川越のまちをゆったり歩いてみてはいかがでしょうか。その際は時の鐘をお忘れなく。

以上